ドラゴンズファン九年生

●野球に無縁→パートナーの影響でいつの間にかドラゴンズファンへ…東京からドラゴンズな日々を綴ります

父への手紙と三人の“あきら” ~野口と野口と、根尾昂~

2021年前半戦のハイライトのひとつは、間違いなく根尾のグランドスラムだ。7歳になる息子は全然違う名前だが、今親になるなら、“あきら”と名付けたくなるかもしれない。根尾昂を見る度思う。とは言ったものの、実は私の父の名前は“あきら”だ。そういえば、名前の由来を知らない。

 

「バットを持つなんて15年ぶりぐらいか、もっとかな」

久々に帰省した実家。庭で横からボールを投げると、父は笑った。今年で76歳。イメージ通りに身体が動かないのは、加齢のせいだけではない。脳出血を患ってからは左半身の動きは鈍っている。いくら長嶋さんに憧れているからって、同じ年に同じような病に倒れなくても。病院に毎日付き添ったことが思い出される。倒れた日から比べたら一人で歩けるのが信じられないほどだ。長嶋さんが大きな励みになっているのは確かだ。

 

父と野球の話をしたことはない

 

父が大学まで野球をしていたのは知っている。部屋に盾やトロフィーが飾られていたからだ。でも、きちんと見たことはない。幼い頃は野球に興味がなかった。ドラゴンズファンになって9年目、それも夫の影響で実家を出てからのこと。いつだったか、やっぱり気になり盾を手に取ってみた。刻まれていたのは「軟式」の文字。硬式だと思い込んでいたので、少しがっかりしたのを覚えている。

父と野球の話をまともにしたことはない。父は土日も仕事で忙しかった。平日の夜、巨人戦をいつも見ていたのは記憶にある。倒れてからしばらくは日中も一緒に過ごしたが、そもそも野球以外の会話も少なかった。どうして軟式だったのだろう。他にも知らないことだらけだ。電話しようかと思ったが、照れくさいので手紙を書くことにした。しばらくすると、メールが返ってきた。

 

「高校で硬式をやったが身体能力、体力がないから大学では無理だと思った。だが野球をやって試合を楽しみたいと思った」とのこと。プロを目指そうと思ったことは「ない」そうだ。曰く、「プロを目指す大学、社会人の硬式には向かないが、野球の試合を楽しみたい人に相応しいのが軟式だと思う」。

そんなやりとりをしてからは、色々見せてくれた。引き出しの奥から出てきた、きっちり畳まれたユニフォーム。「棺桶に入れてくれよ」と頼まれた。野球の話をしなければ、知らないままだったのだろうか。「当時、軟式野球同好会の規約を作っていたんだ。連盟に加入するのに必要でね」と手書きの草稿を見せてくれた。等間隔にびっしり書き込まれた文字。

(几帳面なところは似なかったな。こんなものを作っていたなんて、すこしは世間に名を残していたりして)。

軽い気持ちで父の名前、‐野口彰 野球‐ と検索したら 一つの名前が目に留まる。 

 

“野口明”

 

「ああ、あの野口四兄弟の!」とすぐにピンとくる人も多いだろう。が、正直なところ知らなかった。

 

ドラゴンズ85年の歴史の中の、野口明

 

表記は違うが同姓同名。よくある事かもしれない。が、応援しているドラゴンズの歴史上の人とあれば、それは気になる。検索画面を30年来のドラゴンズファンの夫に見せてみる。「名前は知っているような…というか、顔、似ているな」。確かに。がぜん興味が湧いてきた。一体どんな人だったのだろう?

 

野口明。1917年名古屋市生まれ、プロ野球創成期から活躍した選手の一人。四人兄弟の長男で、兄弟全員がプロ入りを果たしている。杉下茂さんの著書『伝える』によれば、“ピッチングの全てを叩きこまれた人”なのだという。御年94歳・フォークの神様の、さらに師匠のような人だったとは。1936年に投手として東京セネターズにプロ入り。3球団を経て1949年に中日へは捕手として入団。初めてリーグ優勝、日本一になった1954年に最もマスクを被ったのが野口明だった。

 

野口明の足跡を辿りに

 

梅雨直前の晴れた日。東京・杉並区の上井草スポーツセンター。戦前にプロ野球の試合が行われていた「上井草球場」の跡地に作られた地域の総合運動場だ。グラウンド、プール、弓道場などを備えている。訪れたのは、野口明が入団した東京セネターズの本拠地だったからだ。

 

上井草球場は1936年に初めて作られたプロ野球専用球場だ。ただ、盛り上がったのはわずか1年ほど。翌年後楽園球場が出来てから試合数は急激に減り、戦後は8試合が行われたのみ。改装の危機にも見舞われている。一度は戦時中、二度目は1964年の東京オリンピックの前だ。洋弓場に作り替える予定が、種目自体が消えて計画もなくなったのだ。結局、地域の要請で野球場として残されることになる。戦前からもともと軟式野球の利用が多く、それが今に至るまで続いている。1954年に全面改装を経て今の形となった。

 

建物の周りをぐるりと歩いてみた。思った以上に長い距離に汗ばむ。高い囲いの外からはグラウンドの気配を感じない。中に入ると、グラウンドは屋上にあるとわかった。階段を上ると野球道具を持った親子とすれ違う。階段を上り切って外に出ると4面もある野球場。眩しい。この感じは知っている。階段を上って最初に視界に入る緑色に気持ちが晴れる。

お昼時に、午前の少年野球と午後の大人たちのチームが入れ替わった。揃いのえんじ色のユニフォームの面々、身体付きは明らかに素人ではなさそうだ。聞けば、クラブチームとして活動しているのだという。

 

1Fに戻りあたりを見渡す。奥の方に続く通路には上井草球場の歴史という展示パネルがあった。セネターズ創設時の頃の写真や新聞記事。年表や、球場への路線図。選手の一覧。あの名前を探す。いたいた、野口明。

 

確かにここにいたのだ。

 

野球がつなぐもの

 

—―5歳の時、三角ベースが始まりだった。兄について行って、5年生からのチームに一年早く特別にチームに入れてもらったよ。ボールは高価だったから、布で縫った手作りだ。中二で“長嶋ショート―野口サード”の夢の三遊間を勝手に作っていたよ。でも、高校生になって無理だと思った。だから、軟式にしようと思った。野球が好きで楽しみたいから軟式を選んだ。

私はがっかりしたことを恥じた。それより気が付いた。

 

再び父に尋ねてみる。

「もしかして、上井草球場で試合したことある?」

「何度も試合や練習で使っているよ。広くて良い球場だよね。」

 

野口明がいたのは1936年。父が大学でプレーしていたのは1967年からで、上井草球場がリニューアルされてからだ。同時期にいたわけではないし、勿論同じグラウンドの土を踏んだわけでもない。

でも、二人がこの場所で野球をしていたことが、嬉しかった。

 

 父の名前の由来は、「聞いたこともないから、知らない」だった。 ただ、「あきちゃんは、名前の通りあきっぽいねと言われていたよ。」とも。そうかな。こんなに長い間野球が好きなのに。この間も、「根尾は勝負強いところあるよね」と言っていたから、きっとあの満塁ホームランの事も知っているのだろう。

 

庭で父に向ってボールを投げる。後遺症でアンバランスな姿勢で振れたバット。当たったものの、雑草が伸び放題の庭でボールは勢いを失った。ボテボテの当たりをこれでもかという勢いで前に取りに来た孫に、「もう俺より上手かもしれないな」とまた笑った。

今度の夏休みには、芝刈りをしなくちゃ。コロナでしばらく父には会えていない。聞きたいことは、まだ沢山ある。

 

 

参考 ・杉下茂「伝える」

   ・杉並区立郷土博物館「上井草球場の軌跡」展示図録